中村一美の「連差ー破房XI(斜傾精神)2002年」について


 東京都現代美術館にカルティエ美術財団展を見に行ったついでに、中村一美の特集展示を見た。
 展示は二部屋に別れていて、第一室はまあ普通の抽象画が並べてある。タイトルは抽象的なものや象徴的なものや、あるいは、具体的なものもあった。抽象画のタイトルにかんしては、きっといろいろな論争が有るのだろうが、子細は知らない。
 立体的に見えるものもあるが、空間のイルージョンというほどではない。わざと、曖昧にしているのかも知れない。筆跡(?)が、鋭く切り裂いたようなくさび形なのが少し面白い効果をあげている。抽象画家にしては、あるいは、抽象画家だからなのか、色の感覚がするどいようだ。
 第二室に入った。正面に巨大な絵「連差ー破房XI(斜傾精神)2002年」がある。これほど大きな絵ははじめてみた。いったい、抽象画はどうしてこんなに大きくなるのか。どんどん大きくなる。綿布を縫って大きくしたのだろうが、一枚のキャンバスでは、これが限界だろう。絵の具が何トンもありそうだ。あとは複数のキャンバスをつなげて作るほかない。どちらにしろ、飾れる美術館がないだろう。
 とにかく、おそるおそる近づいたけれど、部屋の中程までくると、巨大な絵が視野に収まらなくなり、それ以上近づくと、作者の罠にはまるかと怖じ気ついて、それ以上近づくのをやめて、展示室の真ん中においてある椅子にすわった。そこなら絵全体を見渡せるから安心だ。
 こんなでかいものを描いてどうするつもりだ。美術館用絵画なのか。いくらで買ったのだろう。展示しないときは何処にしまっておくのだろう。どうやって運ぶのだろう。一枚に見えるけれど、何枚かに分解できるのだろうか。それとも、枠からはずして、丸めてしまっておくのだろうか。
 などなど、くだらないことを考えながら、絵に近づいた。左上にある、くさび形のピンクの跡が、大きな筆のタッチに見える。さらに近づいてみると、一筆で描いたようにも見える。他のいくつもの大きな筆跡が重なりあっている。見上げていたせいか、少しめまいがした。画面が揺らいだように見える。私は少し下がって、またキャンバス全体を眺めた。
 ピンクの筆跡が目を引きつける。するとどうだろう。キャンバスが収縮していくような奇妙な感覚にとらわれた。マーク・ロスコ(東京都現代美術館1996)を見たときに感じた拡張の感覚とは反対の感覚だ。あれは確かに具象画を見ている感覚だった。褐色の暗い色面が天と地のように、宇宙のように大きくなって行くのを感じた。
 中村一美のこの絵は反対に収縮していく。物質的なキャンバスが収縮するのではなく、そこに描かれたものが収縮するのだ。抽象画だから具象的な対象はない。それなら何が収縮するのか。それはあのくさび形のピンクの筆跡だ。それに釣られて他の様々な色彩の筆跡も一緒に収縮する。
 まことに、不思議である。筆跡は図像ではない。それが、大きく見えたり小さく見えたりするはずがない。
 フデアトは物質的な絵の具の跡だ。その跡が集まって、Bild(絵)になる。リンゴやヌードや風景になる。その自然の対象が、実物大に、大きく見えたり小さく見えたりするのだ。
 フッサールは、図像の像客観と像主題では大きさの見え方違うと言う。たとえば、子供のキャビネ版写真があるとする。像客体としての子供は、肌は灰色で身長は6センチぐらいだ。ところが像主題としての子供は、肌はピンク色で、身長は120センチぐらいに見える。
 これは、重要だ。推測判断しているのではなく、そう直感的に見えているということが重要なのだ。(それに比べ、立体である子供のミニチュアの銅像は、没我の状態にならないと、なかなか120センチに見えない。それが立体だからだ。写真に撮って平面にすれば大きく見える。立体と平面では像(Bild)の見え方がちがうのだ。(図像の現象学については、私のホームページ「絵画の現象学」へ)

 さて、抽象画には、この像主体がない。自然的対象がないから抽象画だ。中村一美のこの「連差−破房XI」も抽象画だから、像主体がないはずだ。
 ところが、このフデアト(筆跡)自身が像主体になっている。フデアトという具体的な大きさを持った絵(Bild)なのだ。といっても、子供の身長と違って、筆の大きさなんていろいろあるから、どのくらいの大きさに見えるか分からないじゃないかと、いわれれば、そうも思えるし、確信はもてない。
 巨大な筆で書かれた巨大な文字が縮小して見えることはないのは、文字は記号意識の対象であり、文字を絵として見ることはなく、それは、あくまで図形であって図像ではない。文字は意味を表すのであって、具体的な大きさがある対象を表象(represent)すものではない。
 あるいは、ロイ・リキテンスタインの『Brush Stroke』はどうだろう。これは、明らかに絵である。フデアトなしに描かれたフデアトの絵だ。しかし、これは、なかば記号化された絵で、記号なら、リンゴや人体のような大きさはない。しかし、それは絵でもあるのだから、大まかではあるが、大きさがある。ディズニーの登場人物が刷毛(ブラシ)を持って描いている、その刷毛の大きさがbrush-strokeの大きさだ。
 しかも、立体的に描かれているいるので、痕跡に特有の平面性がない。したがって、ロイ・リキテンスタインの『Brush Stroke』は,まことに不思議な絵だ。一見すればフデアトを描いた具象画だが、こんな立体的なフデアトなんか存在しない。だまされてはいけない。
 リキテンスタインのフデアトよりさらに、不思議なのは中村のフデアトである。中村一美のフデアトは、インデックス(痕跡)でもあり、大きさのないくさび形の図形でもあり、具体的な大きさを持った筆のタッチの絵でもあるのだ。したがって、リキテンスタインのフデアトの絵は二重だが、中村の絵は三重になっている。絵の具のフデアトと、図形のフデアトと、絵のフデアトの三つのフデアトである。
 私が中村一美の『連差ー破房XI(斜傾精神)2002年』を見て、収縮するような感覚にとらわれたのは、マーク・ロスコと同じように、抽象画が具象画になろうとしているのではないか。
 ロスコの絵を見るとき、視線は直線的であるけれど、中村のこの絵は、〈絵の具の塗ったキャンバス地〉と〈くさび形の模様が描かれた平面〉、そして、〈フデアトを描いた具象画〉を見る視線が重なっており、物質と模様と図像という三重の存在なのだ。だから、この巨大な絵は、収縮するだけではなく、時には巨大な物質性をさらけだし、そのあまりの大きさのため、空間の統一をうしなって、ばらばらなりながらも、ふたたび画面は凝縮し統一を取り戻す。
 これが、いったい知覚心理学の錯視なのか、それとも、真性の絵画体験なのか、私には確信が持てなかったし、第一室にもどって、ほかの小さい作品を見直す元気もなく、その巨大な絵の前から離れた。

 これは私には希有の体験だったが、どう考えればよいのかまだわからない。ロスコの作品は基本的には具象画だと思っている。しかし、中村一美の絵が本当に具象画なのか判らない。
 この問題は私にとっては重要で、たとえば、カンディンスキーやゴーキーなどの抽象画に成りかかった具象画は、あまり面白とは思わない。思わせぶりで楽しめないからだ。

 去年、ブリジストン美術館で見たザオ・ウーキーの抽象画は、何度も絵の具を塗り重ねたのだろう、透明で微妙に変化する青い画面は美しいものだったが、次第に作品は大きくなり、そのうち、水のイメージがあらわれ、しまいにうねるような波らしきものが描かれるようになったのにはがっかりした。

 中村の具象性はそんなお化けのようなものではなく、もっと絵画の存在論に深くかかわる問題のような気がする。
 これがいったい本当の問題なのか、あるいは偽の問題なのか、今のわたしにはわからない。

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